UPJ事始その3。

さて、始まった怒涛の日々。

けれど幸運だったのは、ポエトリーリーディングに集まってきている人たちとその周辺には、いろんな得意分野を持つ人たちがいたということ。

デザイナー、音楽関係、出版関係、テント屋さん、酒屋さん,事務職、WEB制作、そしてプロの漫画家まで。

デザイナーがロゴを作り、出版関係者が、パンフレットを作り、音楽関係者が音響舞台まわりを担当し、WEB制作者がHPと応募フオームを作り、「なんきん」さんが、イメージキャラクター「ぽえ」と「りー」を作ってくれた。

そしてたくさんの人がフライヤーの配布を手伝ってくれた。

赤字覚悟だったのに、スポンサーさんも、個人の方のカンパもたくさん。
会社のコピー機を「いくらでも使っていいよ」って言ってくれた社長さん。

いま、思い出しても、うるうるしてくるぐらいの協力とチームワークだったのだ。

そしてミーティングは、今はなき西荻窪ハートランド

2000年の春から夏の数ヶ月は、特別な数ヶ月になった。

一般の出演者は、事前に応募してもらい、ゲストに出て欲しい人には交渉と連絡。
ゲストのギャラは「交通費」だけ。それすら、「いらない」と言ってくれた人もいた。

そして7月に私はニューヨークへ行った。
「ニューヨリカンポエッツカフェ」のオープンマイク&スラムに行き、その自由で、暖かな雰囲気に圧倒された。
出演できるのは5組だけなのに、観客は300人以上。みんなが本当に楽しんでいた。ラッパーも、ひとりで詩の朗読をする人も、演劇っぽい人も、日本からの飛び入りグループ(私たち一行のこと)もいたけれど、客席は、どれもを好奇心と、輝くような表情で受け止めていた。

文化のちがい?そう。
だけど、日本にだって東京にだって、こういう場所があったらいいのに。最高なのに。心からそう感じながら帰国したのだった。

続く。